ヴェネチアやオランダのとんぼ玉は、江戸時代(1603-1867)の日本にも伝えられました。鎖国下でも、オランダ・中国とは交易しており、17-18世紀にオランダ船により長崎に運ばれたと考えられます。江戸中期の文献には「舶来玉」「オランダ玉」と記載されています。
「オランダ玉」は大変人気があったため、やがて長崎のガラス職人もガラス玉を作るようになり、その技術は、大阪、京都、さらに江戸に伝えられていきました。この他、和泉国(=泉州)泉北付近(現在の大阪府南部)に、奈良時代以来の玉作りの伝統があったとされています。
江戸時代に作られたこれらの玉は「江戸とんぼ玉」といわれます。泉州、堺付近の玉は「泉州玉」「さかとんぼ」と呼ばれました。
江戸とんぼ玉は、根付、緒締、風鎮、髪飾り、帯留、器物の紐飾り等、様々な装飾に用いられました。
アイヌ向けの交易玉も多く作られました。
玉作りが最も盛んだったのは大阪で、今日残っている江戸~明治のとんぼ玉の多くは、大阪の玉造や泉州(堺等)で作られたものと思われます。
アイヌ民族に用いられたガラス製の玉(とんぼ玉)を「アイヌ玉」といいます。
玉単独で用いられるのではなく、たくさんの玉を連ねた一連の首飾りとして、女性に用いられました。
下端に大玉をつけた首飾りを「タマサイ」、金属の飾り板(シトキ)をつけた首飾りを「シトキ」と呼びます。
貴重な財産でもあり、「シトキ」は宗教儀式に、「タマサイ」は盛装時や通常の儀式に使用されました。
これらの玉は交易により入手したもので、毛皮との交換がもっとも多かったと考えられます。
大阪や江戸の「江戸とんぼ玉」が多く、松前貿易の船により北海道やサハリン(当時の樺太)に運ばれました。
下谷埋堀(後の浅草清島町)の松前藩屋敷には、通称「埋堀とんぼ」と呼ばれたとんぼ玉職人がいたといわれ、彼とその弟子達の作ったとんぼ玉も、アイヌ玉として多く運ばれたようです。
その他、中国清朝の玉、ロシア玉、オランダ玉があります。明治玉も多いようです。
清朝のとんぼ玉は直接交易のみでなく、アムール川流域の少数民族からの交易品(いわゆるサンタン交易、山丹交易)として入手したものが多いと考えられています。
ロシアとアイヌとの交易は18世紀終わり頃から明治に入った後まで行われていました。
オランダ玉は「江戸とんぼ玉」と同様に、松前貿易により北海道に運ばれたと考えられます。